時は平安、まだ貴族が政治を取り仕切り、数々の宮廷文化が花開いた、華やかしい時代
「ほんにお美しいのう。男にしておくのがもったいないですな」
「いやいや、男だから発すことのできる色気かもしれませぬぞ」
そう言う貴族たちの視線の先にある一人の美男子、この物語の主人公である烏丸光紀である。
藤原氏の分流である烏丸家の当主として、卓越した政治能力を発揮し、21歳という若さで大臣次席の正三位大納言に任ぜられる実力者である
それに加え、光紀は『氷上の華』と噂されるほどの容姿の持ち主だ。女からだけではなく、男から求愛されるのも珍しくはない
本人は自分の容姿などには無関心で、朝廷と自家の繁栄に全力を注いでいた
「やってもやっても、仕事が減っていかない」
執政官として光紀は、多忙な日々をすごしていた。
今日も早めに内裏に参内し、帝から依頼されていた資料の作成に勤しんでいた
「光紀様、少しお休みにされてはいかがですか」
「そうしよう、お前もいっしょに休もう」
光紀は側仕えの光弘と休みを取るために、執務室から、近くの庵に向かった
側仕えをしている光弘は、光紀の従弟で、光紀と同様に忙しかった。光紀の側仕えは光弘ただ一人で、ほかに側仕えはおいていなかった。
光紀は人付き合いが苦手で、用心深いのか、中々他人を信頼しない。
唯一、光弘だけは信頼し、光弘だけをいつも側に置いている。
光弘のほうも、有能な従兄を尊敬していて、他人に心を開こうとしない光紀を案じていた。
庵から見える木々は、執務に疲れた光紀たちに、一時の癒しを与えてくれた
「やはり自然はいい。自然は嘘をつかない」
「そうですね、本当に美しい庭ですね」
本当はいつまでもこうしていたいのだが、生憎そんな時間は二人になかった
そろそろ仕事に戻ろうと思い、二人は重い腰を上げた。すると庵と本殿を結ぶ廊下から、ひとりの少年が早足で、光紀たちの元にやってきた。
その少年は、帝の側仕えをしている日進寺頼蓮であった。
幼げな顔つきであるが、非常に才能のある人物だと、光紀は評価している
「烏丸卿、帝がお呼びでございます」
なんでも見てもらいものがあるという。光紀は、仕事が山積みなので断わりたかったが、帝のお呼びを断わることはできなかった
早めに切り上げて戻ってこようと、光紀は帝のいる清涼殿に急いだ
「おお、光紀よ。すまぬな、そちも色々忙しい中で」
この男が時の帝、藤山天皇である。名君と謳われ、荒廃した地方の律令制の立て直しに尽力していた。
光紀は藤山帝をとても尊敬していた。民のことを一番に考える藤山帝の考えに、光紀は敬服していた。
しかし藤山帝は茶目っ気の多い人で、光紀にもよく悪戯を仕掛けてくる。それだけが、光紀には理解しかねるところであった。
「私に御用とは、どのようなご用件でございましょうか?」
光紀がそう言うと、帝は光紀の前にひとつの書簡を出した。どうやら京の町についてまとめられたものらしい。
「これがいかがなされました?」
光紀には帝の言いたいことが分からない。一通り目を通してみたが―確かによく出来た資料だが、これがどうしたのというのだろうか?
すると帝がにんまりと笑って
「実にすばらしい資料であろう?民の生活の現状まで詳しく書いてある」
確かに、実際に町に下りてみないとわからないような細かいところまで、実に正確に書いてある。
しかし光紀が知りたいのは、帝は何が言いたくてこれを自分にみせたかである。
「そこでだ、これを作成した者を、そちの側仕えに推挙したいのじゃ」
帝の急な提案だったが、光紀は少々ありがたかった。
光紀の側仕えは、今は従弟の光弘しかいない。最近は妙に忙しく、光弘だけでは足りないかと思っていたところである。
おそらく帝もそれが分かっていて、少しでも光紀が楽になるように配慮してくれたのであろう
「帝のお気遣い、ありがたくお受け致したいと思います。しかし、実際にその者と会ってみなければ、このお話を正式にお受けすることは出来ませぬ」
光紀は正直、人との付き合いが苦手である。人とどう接していいのか、いまいちよく分からない
帝は光紀の申し出に、「さもあろう」と光紀がそう申し出ることを読んでいたような顔で頷いた。
「そう申すであろうと思っておったからな、実はその者に来てもらっている」
帝がそう言うと、廊下のほうから人が歩いてくる気配を感じた。
光紀が振り返ると、そこにはひとりの男がいた。
そこに居た男に、光紀は今まで感じたことのない違和感を覚えた
「この者が、私が推挙する男じゃ。名は中院左京と申す」
帝に紹介された中院左京は、光紀の前に座ると、じっと光紀を見つめてきた
中院左京という男は、人柄の良さそうな顔に、軽く笑みを浮かべる口から覗いてみせる八重歯が、とても特徴的だった。
普通なら、男に見つめられたとしても、さして気にはしないのだが、この男はなぜか意識してしまう。
「お初にお目にかかります、中院左京と申します。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
左京が頭を垂れる動きすら、光紀は目で追ってしまう。他人に興味はないはずなのに・・・
そんな自分が不思議でしょうがなかった
「失礼ですが、左京殿の位は?」
光紀は気を取り直して、左京に尋ねた。
いくら側仕えとはいえ、あまり官位の低いものは召抱えることはできない。官位が低いと、宮廷内で示しがつかない
末端とは言え、光紀の烏丸家も藤原氏の系譜に入っている。光紀にも藤原氏としての誇りがある
「官位ですか・・・従四位下右近衛中将でございます」
(右近衛中将か、低くもなく高くもないな)
しかし従四位下ということは、公卿ではないということだ。
光紀は困ってしまった。
右近衛中将は、決して低い官位ではない。しかし、光弘ですら正四位下参議に就いている。
左京の官位を上げれば済む話だが、そんなことをしたら口利きをしたと、陰口を叩かれかねない
光紀が押し黙っていると、左京は不安げな顔でこちらを見てきたが、帝は光紀の悩みに気づいたのか、
「位のことを気にしているなら安心せよ。そちの側仕えになる前に、わしが参議に上げておいてやろう」
藤山帝は官位奏上の誓紙を机上に出した。
(さすが、私ごときの考え、帝には読まれていたか・・・)
帝は相手によって悪戯の方法を変えてくる。相手を本気で怒らせない程度を測っているのだ。
故に、過去一度でも、帝の悪戯に本気で怒った者はひとりもいない
それだけ、帝の人物眼に優れているということだ
「左様でございますか。それなら、この話お受け致しましょう」
帝がここまで言うのなら、断わる理由はどこにもない。
この男が本当にこの資料を作ったのなら、確かに優れた吏僚であることは証明されている。
光紀が了承の一言を発すと、さっきまで不安げな顔をしていた左京が、弾けたような顔で笑った。
それにつられて、光紀も少し笑んでしまった。
「して、左京殿にはいつからお手伝いしていただけるのですか?」
光紀は帝の方に向きなおすと、帝に尋ねた。
帝は、話がまとまったことがよほど嬉しいのか、満面の笑みでこちらを眺めていた。
まったく、幼子のようなお方だと光紀は思った。この程度のことで、あのような顔をするとは。
「わしとしては、今すぐにでも・・・と言いたいところなのじゃが、しかるべき部署に伝達せねばならぬゆえ、支度が出来らたら、また使者を遣わそう。」
それを聞くと、光紀は短く退出の挨拶をすると、早々に清涼殿を後にした。
光紀が座敷を退出した後も、藤山帝と左京は座敷に残っていた。
「そちも、これから忙しくなるぞ。光紀は仕事が山積みゆえ」
帝は左京に扇子を向けながら、笑っていた。
しかし左京は、帝の皮肉など気にせず、ただただ嬉しいだけと言わんばかりの顔をしていた。
「構いませぬ。私は、光紀殿の側で働けるだけで幸せでございます」
そうきっぱりと言われ、帝は「そうかそうか」と満足げに頷いていた。
「若い者はそうでなければな。精進せよ」
帝は一言、左京に言った。左京は頭を垂れると、座敷を後にした